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 10年前 2018年5月3日 母と長女の愛子

 8月末に母が亡くなった。
私は子供の頃から自立心が強く親にベッタリする事は無かったし親元を離れるのも早かった。親に対して生意気な息子だったが、母はどんな時でも私の味方で、優しくしてくれた。 
そんな優しい母親の事を大切に想っていた。
母は私より先にいつかは死んでしまう事は判っていたけど、母が居なくなる事がずっと恐ろしかった。昔から母が死んだらどうしよう・・・と心配していた。これは25年前に妹を突然亡くしてから感じるようになった。
母は末期癌でゆっくりと弱って亡くなったので母も私たちも心の準備が出来た。それでも死んだ時は悲しかった。
母が亡くなってから喪に耽り実家の整理をするつもりだったが葬儀を終えて間も無く台風21号に襲われ被災復旧の電気工事依頼で忙しくて傷心どころじゃなかった。
その後も多忙を極め休みも取れず母の事を想い出したくても仕事の段取りで頭が一杯の毎日である。 
私は年中そんな感じなので家族との思い出を想い出す事も無く、どこかに書き留めておかないと一生想い出す事もないかもしれないのである。
母が亡くなる前の事は忘れたくない。

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 若い頃の母の姉と母 1950年後半~1960年前半の頃か
兵庫県相生市の母の実家。幼い頃によく行った。懐かしいな。

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 1972年 若き母と幼い私
『おかあちゃん・おかあちゃん・ぼくね・あのね・うんとね・ぼくね・あのねあのね・・・』幼い私はいつもこんな感じで『あのね』を繰返す内に伝えたい事を忘れてしまう子だったようである。そんな私を母はとてもかわいがっていた。 私が中学生になるとそんな母の優しさを疎ましく想い生意気な態度をとりつづけた。 
親の苦労子知らず。生意気な息子だった。

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 2007年7月 結婚式母は63歳。母の後に立つ母の姉も元気そうだ。
いつまで経っても結婚しない私を母は心配していた。『もうアンタの孫は見られないんかな』と母は諦めていた様だが、私が結婚すると云った時、母は驚くばかりでうれしそうじゃなかった。息子を他人に取られるみたいな感慨だったのかな?

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 2011年1月2日 初詣
母は孫が出来て嬉しかったのであろうか? よく可愛がってくれた。

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 2011年4月10日
毎年かならず黒鳥公園に花見に行った。

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 2011年4月10日
母は散歩が好きだったのでよく散歩に出掛けた。

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 2012年5月20日 黒鳥公園
チビ達もおばあちゃんと散歩に行くのが大好きだった。

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 2012年10月21日
この頃は月に一度は外食していた。焼肉とお寿司が多かった。母はコツコツ働いて得た僅かなお金を少しづつ貯めて我々家族にご馳走してくれた。

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 2013年4月4日 黒鳥公園でお花見
汗ばむほどの陽気の下で焼肉を食べて愉しかった。
この頃、少し前から母は身体の不調を訴えていた。私は市民病院での検査を勧めていたが母はかかりつけ医を信じきっており私の勧めを拒否し続けた。どんどん悪くなる症状が心配で私は母を怒った。
この時に我々の知らないところで母の大腸癌はかなり進行していた。

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 2013年7月6日 焼き鳥 鳥千
母は此処の焼き鳥が大好きだった。美味しかった。

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 2013年11月4日 住吉大社 O太5才の七五三
七五三はチビ達全員が母と一緒に住吉大社を参拝した。 
残念ながら先日の末っ子P-仔♪7才の七五三に母が参加する事は叶わなかった・・・ きっと天国で見守ってくれてたんだろう。

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 1973年 住吉大社 私と妹の七五三
44年前、私5歳、妹3歳。二人ともかわいいな。母はかわいいわが子を微笑んで見ていたんだろうか。

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 2013年11月4日 焼肉あんしん
七五三の帰りがけは必ず焼肉だった。 母は大腸癌の手術前の最後の晩餐だと云って焼肉をおいしそうに沢山食べてた。

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 2013年11月9日 黒鳥公園を散歩
この後11月23日に母は入院。大腸癌の手術を受ける。
これが最後の散歩になったのかな・・・? 悲しい事に殆ど想いでが無い。末っ子P-仔♪がまたこけてオデコから血を出して泣いた事しか記憶にない。
母の大腸癌は結構進んでおり大腸の半分を切除する事になった。年末には退院できたが手術の後遺症で帯状疱疹が発症し、その後ピリピリと痛む症状に苦しんだ。妻が母の帯状疱疹を色々調べてくれて色んな病院に連れて行ってくれたが改善は難しかった。

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 2014年3月12日 焼肉あんしん
この日は長男O太♪の入学祝いに母がベット付き学習机を買ってくれた帰りに焼肉を食べた。術後4ヶ月が経ち母は焼肉やビールを美味しいと食べていた。
因みにこの時私は脳腫瘍が見付かり病院で検査のため骨髄液を抜かれた後なので頭がフラフラして気分が悪かった。先生は1日入院の後4~5日は安静にと云ってたのに私はそれを聞いてなくて退院して直ぐに活動したのが悪かった。 
母はとても心配していたが私はビールも焼肉も美味しかった。
母は術後に仕事に復帰したが体力面に限界を感じ、この年の春に仕事を辞めてしまった。

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 2014年6月14日 焼き鳥 鳥千
母の術後、帯状疱疹は治らないままだがたまの食事会は愉しそうだった。 この年、私は脳腫瘍の頭痛が酷く仕事を選んで休みがちだった。
母を誘ってラーメンを食べに行ったりしたけど、誘っても出掛ける頻度が極端に減った。 大好きだった散歩は行く事が無くなってしまった。

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 2015年6月7日 加太
出不精気味になった母に海と食べ物の話で誘い出し加太へ出掛けた。
久ぶりの潮風と磯の香りで元気になったのか愉しそうだった。 母は海産物をとてもおいしそうに食べていた。
家族で何所かへ出掛けるのはこれが最後になった。

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 2016年5月8日 母の日 ラーメン横綱
この頃は月に一度の外食は殆ど無くなってしまっていた。 誘っても体調が悪い理由から断わられる事が殆どだった。
この日は強引に母を誘い出し母が大好きなラーメン横綱へ行った。 
母は『おいしい・・・』と喜んでいた。 これが最後のラーメン横綱になった。
2013年11月に受けた大腸癌摘出手術以降、定期的な検診を勧告されていたが、母は定期検診を最初の2回受診しただけで以降は受診しなかった。 私は煩く定期検診を受ける様に何度も云ったが母は『もういい・・・アンタらに迷惑をかけたくない』の一点張り。
前回の手術は母にはそうとうキツかった。術後は帯状疱疹が発症し体力も無くなった。 母は癌が転移してまた手術を受ける体力は年齢的に残って無いと考えている様だった。仮に手術を受けたとして、その後何度も手術を繰返したり、いずれ寝たきりになってしまい痴呆症を患って子供に迷惑を掛けてまで生き存える事は絶対に嫌だと考えていた。
だから検査を受けないし手術はしない。
『歩けるうちは自分の力で生きて動けなくなったら死ぬ。葬式もしなくていい。生きてる人間が一番大事やから。お墓は墓守が大変やから要らんし私の事も忘れてくれたらいいよ』と云う。
私は母の考えを理解した上で寂しくなりながら『そんな理想的な事ばっかり云うなよ!そんな上手い事死ねる人間は居らん。今の世の中誰もが子供に世話してもらって死ぬんやで! 病院行ってくれよ!』と云うが私も母とまったく同じ考え方なので母の意志を尊重しながら病院での検査を煩く云い続けた。
翌年2017年になると私は仕事に追われ家族にかまう余裕が無かった。時々母を食事に誘ったが全く出て来なくなった。晩夏に母を訪ねると母は頭がボサボサで顔色も悪く酷く体調が悪そうだった。zっと寝込んでる様な感じだった。
母は『アンタの顔見て元気が出た!』と言ったが私は母の死が頭に過ぎり恐怖と不安に駆られた。それでも私は仕事を続けた。母を妻に託して・・・ 
母は血圧の薬を何ヶ月も飲んでいないという事で、妻は母を連れてかかりつけ医に通ったり母の話し相手をしてくれる様になった。妻も母の異変に気付いており母に腹水が貯まってる事を気付いておりながらどうする事もできなかった。
しかし母のかかりつけ医は今まで母の何処を診て来たのであろうか!? 私も昔母の勧めで母のかかりつけ医で受診した事があるが、ドクターは患者の話を全く聴かず私が自分の症状を話そうとすると『貴方は黙りなさい。診ているのは私だから!』と横柄な態度を取られ、私は喘息の発作が酷いから受診したのに普通の風邪薬を処方された。2度目に受診した時はインフルエンザだった。待合で検温されて40℃近かった為に急遽別室に移動するように言われたがそこはカルテ等を保管する寒い倉庫だった。私は高熱で倒れそうだというのに寒い倉庫で40分近くも待たされた。死ぬかと想った。

 去年2017年年末、家族でお正月の買い物に出掛けた時、母は立つ事も出来ないほど衰弱していた。長女のチーコ♪が母に付き添いソファーで座って待たせた。母が欲しい食材を買い揃え直ぐに帰宅した。私はいよいよか・・・と恐ろしくなった。
年が明け2018年の初詣は母が嘘の様に元気だった。神社を歩きおみくじを引いて子供達にお年玉を渡してくれた。その後の食事会ではサザエやアワビの造りなど大好物を沢山食べてお酒も呑んで美味しいとご機嫌だった。カニやアワビ等をどんどん注文する私に『贅沢が過ぎる!』と説教した。『こんな贅沢は1年に一度だけやで』と私は言った。
母を送り少し安心したがそれから2週間後に母は病院に緊急搬送された。
その日私が仕事場から母に電話をしたら弱った声で『大丈夫・大丈夫・・・』と云う母は『私の口座からお金を下ろしといて欲しい』と云う。私は妻に電話し『おかあが口座が何とか云ってるから、おかんに電話して詳しく聞いてみてくれへんか?』と頼んだ。
その後妻は母の異変を悟り実家へ向かったところ母は救急車で運ばれた。
お正月を過ぎたある日、母は足を滑らせ腰を圧迫骨折してしまい身動き取れなくなる。コタツの上にあったミカンだけを食べて9日間も一人で耐えていた。もし後一日発見が遅かったら餓死していたかもしれない。妻にはとても感謝している。飢えて孤独死なんて・・・
緊急入院の連絡を受けて私が病院で見た母は骨と皮だけで身体は黄疸が酷かった・・・ 妻からは末期の肝臓癌だと聞かされていた。 
先生がドレナージ処置をしてくれたおかげで命は繋ぎ止められた。
嗚呼、またおかんと話せるんだと、悲しみの中にも安心感を得た。
母は肝臓癌末期で手術はすでに延命処置(手術)は出来ないとの事だった。いつ肝臓が破裂するか分からないし、他にも転移した部分が悪さをして急変するかもしれない。それは1ヵ月後かもしれないし今日かもしれない。 
約1ヶ月後に退院して母の自宅に戻った。

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 2018年8月6日 
2月中旬に自宅に戻ってからは少し元気になり食事を取る事も出来る様になった。母が実家に戻ってから気付いたが給湯器も壊れてるしエアコンも壊れてるではないか。なんで云ってくれなかったんだろう。これが母の生き方。
直ぐに介護申請をしたがほとんど妻が献身的に母をみてくれた。
私は仕事と母の事しか頭に無く、今年の事は何も想い出せない。
8月に入ると母は弱り始めた。食欲が無く大好きなお寿司を買ってあげても無理矢理食べさせて1つ食べるのがやっと。
『おかあ、頑張って食べてえやあ、死んでしまうで! 元気になってまた横綱ラーメン食べに行こう』
『横綱ラーメンか、食べたいなぁ』と云う母。 
もういちど食べさせてあげたい。でももう無理なんや・・・と痛感する。

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 2018年8月9日 8月10日
毎晩母のトコロへ行った。子供達はおばあちゃんがシンドイから静かにしているつもりでもやはり煩い。母には負担が掛かるが少々騒がしい方が生きる活力が湧いてくるはず。母も嬉しそうだった。
8月10日は朝にローソンでドリップコーヒーとパンを買って末っ子P-仔♪と二人で押しかけた。 母はパンとコーヒーを美味しいと全部食べた! 久ぶりに食べてくれた。嬉しかった。
後日談になるが母は『ひろしは食べろ食べろとうるさい』と妻に溢してらしい。
8月10日は末っ子P-仔♪と二人で母の家に泊まった。 3人で金曜ロードショー『ハウルの動く城』を観た。母は『良かった』と云って、次回予告の『となりのトトロ』を愉しみだと云った。『となりのトトロ』は死んだ私の妹が大好きな作品で、ペットの柴犬の名前をトトロと付けていた。
 母が娘に会いたいと珍しく私に強く願った。 
私には二人の妹がいて末っ子は若い頃に死んだ。真中の妹がいるが嫁いだ後に母はオヤジと離婚し、離婚したオヤジは妹の処へ転がり込んで数百万円の借金を作り妹夫婦を苦しめた。 私のオヤジは親戚、兄弟、息子から2億を超える借金と債務を背負わし結果的に身内を借金苦で死に至らしめた。自分だけがかわいい人間である。母はオヤジの命令で色んなところで金を借りに行かされた。母はオヤジに逆らえなかった。親父のせいで母の評判は落ちる一方。 同じ想いをしている身内だけが母の苦労を知っていた。 ちょうどオヤジが母に暴力を古い拘置所に入れられたのを機にオヤジの身内が謀反を起こし父と母を離婚させた。私は母の性を選び無一文で母を連れて家を出た。ギリギリだった。アホみたいに借金を作り身内を抵当に入れるゴミの様なオヤジ。私自身も知らぬ内に3千400万円の借金を背負わされた。地獄だった。母の地獄はもっと凄い。だからオヤジから逃げ出して母と二人でゼロからスタートした。
まさか親戚中から追い出されたオヤジがその後妹夫婦のところに転がり込んでまた借金を作るなんて考えもしなかった。 妹夫婦からすれば『何故、長男が面倒を見ないのか? 母親は何をやっているのか!? 生活が大変なのになんで我々が義父の借金を払わなければならないのか!?』となるのは当然の事。
しかし私にはもうどうする術も無かった。 
この事があり妹夫婦とは疎遠になっていた。事を知らない妹は母を憎んだ。 妹夫婦には多大な迷惑を掛けた。それでも妹は私の事をを兄と慕ってっくれて内緒で繋がっていた。
そんな事がありながら今、母と妹を合わせる事に私は躊躇した。
妹に母の事を伝えると、あれだけ憎んでいた母の事を心底心配し、毎日の様に母に会いに来た。


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 2018年8月11日 夜
長男O太♪と二人で母の家に遊びに行く。O太♪はふざけてばかりで本心を出さない困った息子だけどおばあちゃんの事は心配みたいで態度で見て取れた。おばあちゃんと二人でずっとお話してた。
O太♪、おばあちゃんの居ないところで涙ぐんでた。
帰り掛けに母は『泊まっていかないの?』と云ったが私は仕事があるしO太♪も学校があるからと帰った。

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 2018年8月12日 夕方
次の日は長女のチーコ♪と二人で母の家に遊びに行く。母とチーコ♪は何を話していたんだろう。 母もチーコ♪もずっと笑顔だった。
チーコ♪は感受性が強い子だけど表現力が乏しくどうしたらいいのか分からない。

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 2018年8月15日 母が入院
仕事中に妻から『おかあさん入院します』と連絡があった。母が自ら入院したいと妻に頼んだ。
母が自宅で居る間ずっと看護士さんと先生が訪問してくれていた。8月に入ってから母が弱ってきたので先生から入院を勧告されていた。ただし今度の入院は緩和ケアであり治療の為の入院ではありません。帰宅支援は望めないので覚悟して下さいと説明を受けていた。 
母も覚悟して聞いていた。
その母が妻に頼んで自ら入院を希望した。 
母は今年の最初から一度も『痛い』と言ったことを聞いた覚えが無い。
時折お腹をさすって顔をしかめるので私は『おかあ痛いんか?』と尋ねると母は『うん・・・』と一言。 病院から頓服薬を処方されているのに飲まなかった。そんな母がいよいよ妻とヘルパーさんの助けだけでは無理だと判断した(諦めた)のだろう。 元より妻やヘルパーさんに下の世話を一度も頼まなかった母は這ってでも自力でトイレに行き間に合わなかったら下着を自分で洗ったり隠したりしていた。私はそんな母をとても尊敬する。
15日に入院してから母は少し安心したのか食事量が増えた。 病院食を美味しいとたくさん食べた。
我々は母の顔を見に毎日病院へ行った。私の家族と妹家族が毎日母の傍に居る。
母は今年の正月明けに胆道ドレナージを処置して戴いたが毒素が脳に回ったのか記憶の一部が消えてしまったみたいだった。母の中には自身の子供の頃の記憶と最近の記憶しかない様に感じられた。あれだけ心配してた息子の脳腫瘍の手術の事すら記憶が無い。私は色んな想い出を話したが母には届かなかった。寂しいなと想いながらも母は日常会話が出来るので良しと想った。昔話を沢山したが何を話したのか想い出せない。ただただ母に食事を摂らせることばかりが記憶に残っている。痩せ細って行く母の姿を見るのが辛かった。私の『食べなきゃ死ぬ』という想いが母を苦しめたのだ。

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 2018年8月26日 / 8月27日 
8月15日に入院してから充分な食事を摂り少し元気になったが1週間も経つと元気が無くなってきた。25日には母はとても衰弱し食事が喉を通らなくなったので病院に食事のお米をおかゆに変えてもらうようお願いした。私は売店でアクエリアスを買って母に飲ませてあげた。アクエリアスを少し飲むと疲れたのか眠りに入った。母は私にアクエリアスを冷蔵庫にいれる様に頼んだが、私は『何も入っていない冷蔵庫にカードを使うのは勿体無いからやめよう』と云った。
母は私のこの言葉に不機嫌になった。
翌日26日、仕事を早く切上げて病院に直行。母は昨夜とは別人の様になっていた。覇気が無く虚ろな目。 ちょうど病院の夕食が運ばれてきた。母はすでに自分でスプーンを持つ力も残っていない。私が母に食事を食べさせた。息子に食事を食べさせてもらうなんて母は嫌がるだろうな。母にとって何時まで経っても私はかわいい息子。母にはそういうプライドがあった。
母は直に口を開けて私の手から食事を摂った。意外だった。
食事をしながら弱々しい言葉で母は精一杯話した。
『この煮物は甘過ぎてお母さんもういらない。もう食べられない』
『おかあ、いぱっぱい食べらな元気にならんで』
私は母に食事をさせながら、もうこれが最後の食事になるかもしれないと悟った。母は私以上にそう感じていたんだと想う。最後の食事は殆ど残したがデザートのキウィを『おいしい・おいしい』と全部食べた。
母は『もう別に会いたい人もいないしな・・・』と云った。自分が死ぬ事を悟ったんだろう。
食事を終えた母は疲れて眠りに就こうとする。帰ろうとする私に母は『冷蔵庫の電源いれて』と云う。 私は『おかあ、冷蔵庫に何も入ってないから冷蔵庫にカード入れるのやめとこう』と云う。 母は何も云わなかった。これが最後の会話だった。
母はなぜ冷蔵庫に電源を入れる事に拘ったんだろう。 無駄だと分っていても母の想いを聞いてやるべきだった。 今はその事が無性に後悔している。
27日は私の家族と妹家族で母の病院へ行った。 母は今までに無く苦しそうだった。
主治医から『覚悟して下さい』と説明を受けた。 
『もう抗生物質では抑えられないほど腹膜炎が酷く発熱も下げれない。胆嚢がパンパンに膨れ上がっていてお母さんは凄く痛い筈です。多臓器不全で排尿も出来ないので点滴を止めざる得ません。このまま心臓が止まってしまいます』
母は苦しそうだった。私と妹は和らいだ声で母に話しかけるが母は苦しみに耐えるので精一杯で応答するのも億劫な様子だった。『おかあ俺らが傍に居るで!分る?』『苦しいんか?痛いんか?』 母は『うん・・・』と時折声にならない声で応える。 
夕方になり妻が病院に来た。『お義母さん、来たよ!大丈夫!?』 妻が来た途端に母のバイタルが上がった。母は声にならない声で『腹立つ・・・腹立つ・・・』と、自分の意志はハッキリしているのに体も動かず声も出せない事に腹を立てていた様だった。母は最期に力を振絞って『ありがとうな・・・』と云った。 妻は『え!? 何て? お義母さん、誰に言ってるの!?』と大きな声で訊く。
母は『あんたにやっ・・・』と妻に言った。 これが最後の言葉だった。
この一年近く母の傍に居てくれたのは妻だった。

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 2018年8月28日
朝は看護士さんの呼びかけに反応して目を開けたりするものの午後になると酸素マスクが無いと呼吸が難しくなる。看護士さんは『意識はあるので呼びかけてあげて下さい』との事。妹と二人で母の手を握りずっと一緒に居た。 母は苦しそうな表情で呼吸を続ける。
夜になり午後8時を過ぎると呼吸がゆっくりになりやがて脈も無くなった。苦しそうな表情が消え、呼吸が停まっているのかすら分らなくなってしまったが首の頚動脈が僅かに動いている。
やがて脈は弱くなって行き、そして停まった。
私と妹は泣いた。
程なくして医師が来てくれて母の死亡を確認してくれた。 マスクを外すと母は笑っている様な表情だった。

おかあ・おかあっ  うるさいっクソババァ! 
おかあちゃん・おかあちゃん・おかあちゃん・・・
寂しいよう! もう会えないんやなぁ・・・・・

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 9月 四十九日は自宅にて私と妹華族だけで迎えた。
末っ子P-仔♪が『おばあちゃん・となりのトトロ観たいって言ってたのに観れなかった・・・』と泣いていた。
母が死んだ後、最後にまた親不孝をしてしまった。母の意志に反して盛大な葬儀を執り行ってしまった。 半分は私のエゴ。でも半分は私の母への気持ち。結婚式も挙げず何も持たずひっそりとシンプルに生きて来た母の最期くらいは・・・ 
これは私の想い上がりでしかないけど。 おかあ、ごめん。
 
 結局母は自分の想い描く通りに生きて死んだ。 
最後まで歩き、呆ける事無く誰の助も借りず生きた。最後まで親であり続け母を貫いて死んだ。私は最後まで親孝行出来なかった。
あかあちゃん・ほんまにありがとう


Bach Johann Sebastian
Goldberg-Variationen Aria mit verschiedenen Veränderungen
ゴルトベルク変奏曲 バッハのBWV 988
とても美しい曲。愉しい時に聴いても寂しい時に聴いても
心が鎮まり満たされる。